社会は多様性に不寛容な人々に対しても寛容であるべきか 「寛容のパラドックス」

最近、よく目にする言説があります。それは、

多様性が大事だというなら、多様性を拒否する意見も認めるべきだ。

というもの。

具体的には、「多様性は担保されるべきというならば、◯◯は頭がおかしい、気色悪い、病気だ、というという意見も許容すべきだ。」など。

寛容のパラドックス

このような意見は、イギリスの哲学者ポパーが提唱した、「寛容のパラドックス」が危惧していることを体現していますね。

「寛容のパラドックス」とは、さまざまなものに寛容であることを重視し、不寛容な人々にも寛容になると、その人々に寛容性が奪われたり、破壊されたりするという逆説的な考えのことです。

それについてポパーは、「寛容な社会を維持するためには、寛容な社会は不寛容に不寛容であらねばならない」と結論づけました。また、「不寛容な言動に対しては、言論によって不寛容である権利を要求すべきだ」とも主張しています。

所見

さて、これからは個人的な意見ですが冒頭のような言説は詭弁であると思います。なぜなら、どちらに転んでも差別的な言動を許すことになる屁理屈であるからです。

  • 多様性を重んじるならば、多様性を認めない差別的な言動に対しても多様性として寛容になるべきだ。つまり差別的な言動は許される。
  • 多様性を重んじないならば、差別的な言動は許される。

というように。(おそらくこの説明も既知のものではあると思います。)

まあ彼らが冒頭のように発言するのはホモフォビアに起因している可能性も高いと思いますが。

書きたいことはまだあるのですが、そろそろ眠くなってきたのでこれくらいにしておきます。

さようなら。